マイル換算率

むすひ

05« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»07

昔の人達は全ての存在が『むすひ(霊産)』の力で産みだされると考えていました。「むすひ」で産み出された私たちがひとつに繋がり素晴らしい地球にしていくことができたらいいですね

 

セッション(東京・神奈川県・千葉県・埼玉県)平成30年5月11日(金)と13日(日) 

Posted on  2018/03/22 Thu. 20:17   
日時   5月11日(金)と13日(日)  両日各お一人。時間は特に決まっていないので、お好きなように(^^) 9時~17時ぐらいまでの間なら何時間でも。 その方のために一日空けますので、どうぞお好きなだけ。どこかで静かにお話しするのもいいですし、一緒に行って欲しい神社がれば、神社やお寺の御案内というのもありですね。悩みのある方、進む道に迷っているという方、悩みなど無い方もOKですし、ブレない精神の整え方、ブログには載せることができない事や書いてない事など様々な情報などを聞きたい方、神社や神について、・・・なんでもありです。

場所は相談の上決めましょう。


料金・・・10000円


御縁ある方との時間楽しみにしています。(^^)/


5月11日(金)・5月13日(日)・・・両日予約済



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カテゴリ: 個人セッション

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千葉神社・御岩神社・大洗磯前神社参拝セミナー(千葉県・茨城県) 平成30年5月12日(土) 

Posted on  2018/03/22 Thu. 20:15   
日時  平成30年5月12日(土)



集合地と集合時間  千葉神社 手水舎前 8時30分(集合時間に間に合わない方は遅れての合流可。千葉神社にいる間に合流してくださればOKです。)



参拝ルート 

千葉神社➡ランチ➡御岩神社➡酒列神社➡大洗磯前神社


千葉神社



御岩神社



大洗磯前神社





定員 4名(定員に達しましたので締め切らせていただきます。ありがとうございます。)




参加費  10000円



御岩神社の御祭神の一柱である「立速日男命様」について、御岩神社の宮司様にいただいた資料から抜粋させて載せさせていただきます。


立速日男命の名についての考察・・・この神の性格については、「立と速」とはその神威の形容で「日男」というのが神の姿であり、一種の太陽神としている。しかし立速日男命が太陽神であるとすれば、周辺に住む百姓に厳しい祟りをして常に苦しませることはしないであろう。「神の祟、甚厳なりき」という記事からすれば、太陽神でなく、雷神と思われる。すなわち、タチハヤヒオとは立速火男であり、電光石火、轟然たる音響とともに落雷して、人畜に災害をもたらす性格をもった神であろう。この神がまたの名を速経和気命といったとあるが、速経の経は光るものを意味するので、ハヤフワケとは「ワケ」は明らかでないが、速く光るもの、稲妻を意味し、ますますこの神の性格がイカヅチであったことが確かとなる。したがって、この神が「松沢の松の樹の八俣の上に」坐したというのは、松の樹に落雷したことを物語っている。薩都の里の一帯は阿武隈山麓い位置し、現在でもこの山麓一帯は落雷の激しいところであることも注意されよう。この神の名にある「速日」は饒速日命や日神カグツチがイザナギノ命に十握剣で斬られたときあらわれた甕速日神、熯速日神の名と同じで、火の神と関係が深いのである。しかも甕速日神は武甕槌神の祖とされているのである。・・・立速日男命は鹿島の御子神であろとしている。鹿島の神である武甕槌神が雷神性格を有することは間違いないので同じ性格をもつ立速日男命と結びついたのであろう。…他にも荒ぶる神で太陽神的性格とする。「日」への配慮が強い。荒く猛々しい神。霊力の作用が早く猛々しい男の神。動作の敏捷な男神。勢いの荒々しい男の神・・・などと解釈されている。 (『御岩山』 監修 志田諄一  編集 山椒の会 から抜粋)






※終了予定時刻は17時30分。帰りは、全員の御都合の良いようには難しいかもしれませんが、出来る限り皆さまの御都合の良い駅までお送り致します。



※御岩神社は登拝道ではなく参拝道での参拝をさせていただきます。


※世界遺産熊野古道の神事に、参加費の一部を使わせていただきます。事情は大変複雑な為、御縁ある方々に直接お伝えします。





御縁ある参加者様と一緒に時間を過ごすことができること、心から楽しみにしています(^^)


お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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カテゴリ: セミナー

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熱田神宮造営誌 その3 

Posted on  2018/03/10 Sat. 09:19   
戦災の被害について、以下熱田神宮造営誌から抜粋し記します。


名古屋に本格的な空襲が加えられたのは、昭和十九年十二月。明けて昭和二十年。日に日に激化する空襲の様相は、当神宮の職員にも最悪の事態に対する決意を固めしめた。百二十名の職員は既に非常事態に入り、警報発令と同時にそれぞれ定められた配置につく日々が続いた。
 果然、三月十二日夜、二百数十機のB29来襲、遂に無数の焼夷弾が神域に落下した。
 劫火は夜明けまで荒れ狂った。この日焼失した施設約九十、建物の延坪約千五百坪(約四九五〇平方米)。境内諸施設の殆ど三分の二を一夜にして失った。
 中でも、国宝に指定されていた鎮皇門を始め、東楽所など貞享三年改修築のもの等、多くの由緒深い建造物を焼失したこと、又前述の新築間もない勅使館、神楽殿、斎館、官庁など一連の建物を悉く失ったことなどは、この上もない痛恨事であった。
 当神宮では、直ちに仮宮庁を焼け残りの錬成場(旧宮庁)に移して応急処置を講じ、とりあえず奉祀、参拝に支障を来さない最小限度の施設の復旧に全力を挙げた。
熱田神宮御被災のことを知った国民からは、一日も早い御復興をと、切実な祈りをこめた浄財が数多く寄せられた。約一月後には被害視察に来宮した大達内務大臣の五百円を始め、総額は実に十万円に達している。
 だが、非情な戦火は再び、熱田の社を犯し来った。
 大本営発表(昭和二十年五月十七日十二時四十分)
  一、本十七日二時頃より約二時間に亘り南方基地の敵B29約一〇〇機名古屋地区に来襲市街地に対し主として焼夷弾攻撃を加えたり、右に依り熱田神宮御本殿御屋根の一部及付属建物の一部炎上せり
なお名古屋市内各所に発生せる火災は払暁迄に概ね鎮火せり
  二、現在迄に判明せる戦果撃墜九機撃破二十二機なり
前回の空襲から辛うじて免れた諸施設は炎上潰滅した。
しかも恐れ多いことながら、戦火は遂に御本殿に及んだのである。勿論御本殿被災と知って職員は死力を竭した。燃えさかるお屋根の上で炎に包まれながら、無理矢理に引きずり下されるまで火と戦った職員もいたし、御本殿の中へホースを抱いてとび込み、煙に巻かれて失神寸前に救い出された職員もいた。火は神宮、消防、軍隊などの必死の努力によって、御屋根の半ばを焼いて消し止められた。しかし、戦火の及んだ本殿を存置することは恐れ多いと直ちに解体の工が進められた。
 翌十八日の新聞紙上に次の様な長谷宮司謹話がのせられた。
 「真に恐懼に堪えない次第でありますが、前日御神体始め御動座申し上げたのは真に御神慮で、まことに感激置く能わざるとこ ろであります」長谷宮司の談話中、「前日御動座申し上げ・・・・・・」とあるのは次の様な事情であった。
 万一の事態に備えて地下御本殿が築造されていたことは、前節で述べたが、問題は、何時奉遷申し上げるべきか、という奉遷時期の問題であった。神爾の奉遷はは云うまでもなく、最高の重大事である。まして当神宮の場合、宮中の御意向を拝せねばならぬ。軽々にすべき事でなく又出来ることでない。といって時を失して万一の事態に至ることは絶対に許されない。恐らくは、神宮当局首脳の苦悩は筆舌に尽くせないものがあったにちがいない。三月の大空襲も御本殿に関する限り御異状がなかった。だが果して何時まで御異状なしと云い得ようか。遂に断が下った。奉遷の儀を執り行うと決定せられた期日、それが実に五月十六日であった。当時の情勢下に於ける、能う限りの厳儀を以って奉遷が行われた。朝から行われた奉遷の諸儀は夜に入って終わった。安全この上なき地下御本殿に奉遷後僅か数時間の後、名古屋地区にB29来襲の警報が発せられ御本殿の御屋根にも御被害を蒙ることになろうとは。御神慮の程ただただ恐れ多い極みであった。
 五月十七日空襲の被害は、本宮関係を始め、国宝海上門其の他であった。



熱田神宮造営誌 その1・その2


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カテゴリ: 熱田神宮

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熱田神宮昭和造営誌  その2 

Posted on  2018/03/07 Wed. 20:06   
先日熱田神宮の終戦後について記しましたが、終戦前のことについても少し記しておきます。


以下、「熱田神宮昭和造営誌」から抜粋



防災工事


この頃名古屋市は軍需産業の一大中心地であった。殊に熱田の宮の鎮まります南部地区は航空機を始め多くの軍需工場が櫛比していた。万一戦端が開かれた場合には空襲の危険は十分に予測された。しかも大陸の戦火は次第に拡大し、世界情勢も第二次世界大戦勃発を目前にしていよいよ緊迫の度を加えていた。
 この様な情勢から昭和十三年六月、政府及び神宮当局では、絶対に必要となる日の来ない事を熱願しつつ、神儀奉護の為に、有効な措置を取らざるを得ないという結論に達した。
 そして実施に移されたのが、「神庫」新設工事であった。
 神庫はまずあらゆる空襲に耐え得るものでなければならない、と同時に神儀を奉斎する為に神殿形式であることを要する。この条件から、工事は内務省と、陸軍築城本部とが中心になって進められた。当時の広瀬内務次官と陸軍築城本部長が来宮、現地に於いて長谷宮司を交え慎重に検討の結果、国費十五万円によって施行することを決定。更に再度にわたって内務次官、神社局長以下が来宮して位置その他を検討するなど、まことに慎重な準備を経て工事に着手した。
 同年十月地鎮祭を執行。築城本部が当時最新の築城技術をあつめて設計した、一トン爆弾の直撃にも堪えることが出来るという、地下御殿の建設が進められた。
 面積神庫三八坪七五(一二七・八平方米)東廊西廊二一坪五〇(七〇・九平方米)計六〇坪二五(一九八・八平方米)総体は鉄筋コンクリート造で一部鉄骨、鋼鉄製扉が三重に設けられ、気密鉄扉で外気と遮断されるようになっていた。屈折した廊下を経て、気密鉄扉内は内陣、外陣に分かれ、総桧造の社殿形式が施工された。
 勿論この工事は当時としては機密を要する工事であった。従って工事名称を、「水道工事」として外部に工事内容が漏れるのを防ぐなどの苦心を重ねながら一刻も早い完成を目指して工事は進められた。
 完成は昭和十四年末。後述する様に五年余の後、恐れ多い事ではあったが、一時神儀を奉遷申し上げて、奉護に完きを得たのは、実にこの神庫のおかげであった。
 神庫の工事と殆ど時期を同じくして、本宮を中心とする防火施設が、大きな規模をもって開始された。
 この施設工事には十万円余の経費が投入され、国費の外に奉賛会、特志家などの浄財があてられている。
 施設の概要は非常の際、市水道が断水した時を配慮したもので、境域の東西二ヶ所の神池(各水量約一三〇〇立方米)の水を、両神池に接して設けた二ヶ所のポンプによって汲み上げ、十分な圧力を加えて本宮周辺七ヶ所の消火栓から放水しようとするものであった。ポンプは八十馬力のガソリンエンジンが東西ポンプに室にそれぞれ備付けられた。ポンプ室は空襲地震等に耐える様に、鉄筋コンクリート鉄扉付とし、東は一〇坪五三(三四・七平方米)西は一二坪七一(四一・九平方米)の面積をもつ。ポンプ室から本宮周辺へは、径二五〇ミリの配水管を埋設、それぞれの消火栓を結んだ。
 東西両神池の水の補給は境内に西部に二本の鑿井を新設し、この井水を掦水して正参道両側の側溝に導き、最後に神池へ流す仕組みにした。従って、神池へ常時水が流れ込みいつも十分な水量が確保されていたわけである。
 鑿井の深さは一本が約一三三米、一本が約三三〇米であった。前者は愛知県下全小学校生徒から寄付金を、後者は福岡県貝島太市氏からの浄財を経費にあてたものであった。
 その外に地下貯水槽が、昭和五年に二箇、昭和八年に一箇、昭和十四年に一箇(各貯水量一〇〇立方米)設けられ、手動ガソリンポンプ(十六馬力)と相まって防火態勢を強化した。
 以上の諸施設も昭和十四年には工事を完了している。
 この時期の防火施設が、何処に重点を指向していたかは、当時定められた次の「熱田神宮非常時職員の心得」の一節がはっきりと物語っている。
 「……火災其他如何ナル非常事変ニ際会スルトモ、当神宮職員タルモノハ先ツ本宮境内ノ保全ト警衛トニ専念努力シ、就中御本宮正殿ノ保全ニツキテハ及フ限リノ手段ヲ竭シコレヲ死守スルノ覚悟アルヲ要ス・・・・・・」




熱田神宮造営誌 その1



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カテゴリ: 熱田神宮

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飛騨・高山参拝セミナー (岐阜県) 平成30年4月14日(土) 

Posted on  2018/03/06 Tue. 12:43   
日時  平成30年4月14日(土)



集合地と集合時間  トランブレーみゆき宅  午前3時00分 (みゆき宅に前泊も可) 



参拝ルート 

水無神社➡日枝神社➡桜山八幡宮➡朝市➡日下部民芸館➡屋台会館➡飛騨総社➡千光寺➡白山中居神社➡阿弥ケ滝




定員 4名(定員に達しましたので締め切らせていただきます。ありがとうございます。)




参加費  15000円



※4月14日は高山祭。春は日枝神社(山王祭)の例祭です。大混雑しますので、早朝到着での参拝をさせていただきます。


※日下部民芸館 500円 ・ 屋台会館 900円 ・ 千光寺 300円 ・ 円空仏寺宝館 500円の拝観料は参加費に含みます。


※遠方からご参加の方は、前日みゆき宅に宿泊も可です。(宿泊希望の方は、その旨をお知らせください)最寄り駅は、名鉄本宿駅。翌朝の出発は午前3時30分となります。(宿泊費用は不要。参拝終了後、また愛知県のみゆき宅に宿泊してから翌日帰宅希望の方は、どうぞお泊り下さい。その場合も宿泊費用は不要ですく\(^o^)/)


※終了予定時刻は17時00分。愛知県への帰宅途中下車御希望の方は仰ってください。



水無神社
 「武内宿禰(たけのうちすくね)」は「位山(くらいやま)」の麓に位無き皇祖皇宗の御霊魂をお祀りする「位無(みなし)神社」を造営なさいました。この地域に住んでいた「飛騨丹生家」は、特に最後まで大和の誇りを持った民族でしたが、神武権力によって大切な大和の歴史消されていく中、所詮かなわぬ身ではあるが、大規模な一揆を起こして立ち上がったのです。しかし、処刑されたり自害された方々が、最後の集会場所とされたのが、この「位無(みなし)神社」でした。そのような中で最後まで抵抗した方々は差別の部落にされました。これより前に、この地を逃れて他に移った人々が「八幡神社」をそれぞれがお祀りして遺されたのが「大八ケ村」だそうです。


終戦直後、熱田神宮の御神体はこの水無神社に御動座されました。以下、熱田神宮昭和造営誌から抜粋。『八月二十一日、極秘の中に、長谷宮司が奉仕して、神儀奉遷の儀が行われた。奉遷の目的地は岐阜県水無神社、御料車は東海軍管区司令部から派遣された乗用車二台であった。 奉遷後約一カ月、占領軍も進駐も一段落しその動向も或る程度の見通しをつけることが出来た。九月十九日、再び御動座。篠田権宮司が奉仕して水無神社を後に無事熱田神宮に還座せられたのである。 』




袈裟山  千光寺

平安時代となり、仏教が伝来していた事により、丹生家の方はこの仏教を隠れ蓑として僧侶になって弾圧から逃れて、人祖の歴史を密かに隠し遺したので御座いました。(泰澄大師・空海大師)

そのような中で「嵯峨天皇」は、飛騨の「位山」に大丹生家・丹生家の位を剥奪された多くの御霊魂をお祀りする「袈裟山(けさやま)・千光寺」を建立なされました。「袈裟(けさ)」とは僧の位を表し、天皇の皇子の真如親王(しんにょしんのう)を初代のご門跡とされたので御座いました。(真如新王は弘法大師の十弟子のお一人)この千光寺の御本地仏は「十一面千顏千手観音菩薩」とされ、位を召された大丹生家・丹生家の方々の御霊魂処・御霊魂祀りされました。

「十一面千顏千手観音菩薩」は、人祖とその御子三十八名を現す仏さま。






御縁ある参加者様と一緒に時間を過ごすことができること、心から楽しみにしています(^^)


お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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熊野参拝セミナー (三重県・和歌山県) 平成30年4月7日(土) 

Posted on  2018/03/06 Tue. 12:42   
日時  平成30年4月7日(土)



集合地と集合時間  
トランブレーみゆき宅に午前2時30分集合、またはみゆき宅に前泊も可能です。 または現地近くに宿泊の方はお迎えにいきます。




参拝ルート 

みゆき宅➡①花の窟神社➡②熊野本宮大社➡③大斎原➡④速玉大社➡⑤阿須賀神社➡⑥神倉山➡⑦飛瀧神社・那智の滝➡⑧那智大社・青岸渡寺➡⑨神内神社


大斎原(熊野本宮大社の旧所在地)・・・伊邪那岐家世襲最後の皇祖の御霊処(みたまどころ)「陵」墳墓の地
約1500代続いた伊邪那岐家世襲最後の伊邪那岐家尊御夫妻の墳墓・ハヤスサノオ尊御夫妻の墳墓・アマテルカミ尊御夫妻の墳墓

現在の生駒山の石切神社の場所がニギハヤヒ天皇を中心とする大和政庁が在った地です。神武天皇は、現在、西宮にありますエビス神社の場所から上陸して、一気に占領しようとしましたが、事の外、抵抗が強く、終に軍勢を引き上げ、紀伊半島を南に廻り、那智の浜から大斎原を占拠して大和の国を侵略する道を選ばれました。そして神武天皇は、那智の浜「なぎさの森」から山越えして、熊野川に出て、瞬時に大斎原を占拠して、「吾の言う事を聞かなければこの墓処とて暴いてしまう」と談判になれば、ニギハヤヒ天皇は「皇祖の御霊処を質に取られた上の談判なれば、吾が我慢するしかない」と仰せになられ、無血を以って国譲りをされたようです。明治二十二年に、明治憲法が配布されその憲法を見られた神が「この憲法は国を亡ぼす憲法であり、直ちに水に流せ」と仰せになり、大斎原の三段だけを残し、ほかの建物、修験者の行者小屋・祈祷所はことごとく流されました。その後、洪水に遭わない現在の地に、本宮は遷されてお祀りされたそうです。




速玉大社(大和民族の隠れ家・大斎原の案内所・兼・警護所でした)
神武天皇は、那智の浜「なぎさの森」から上陸し、山越えをして、熊野川に出て、瞬時に大斎原を占拠されしてしまいましたので、警護所の役目を果たす事が出来ませんでした。
我が日ノ本の国の初めの神祀りを、神の意志により人類の御先祖の御霊処となりました。そのため、歴代の数多の天皇、親王が何度も参拝されたのはそこにあります。



定員 4名(定員に達しましたので締め切らせていただきます。ありがとうございます。)



参加費  15000円


那智滝御拝所での拝観料は、参加費に含まれます。





※あちこち歩きますので歩きやすい靴と服装でお願いします。


※みゆき宅に前泊希望の方は、どうぞお泊り下さい。(宿泊費は不要です)また、全ての参拝終了後、みゆき宅宿泊・翌日帰宅希望という方もどうぞ遠慮なくお泊りください。前泊、後泊両日お泊りも、もちろんオッケーです(^^)/ みゆき宅に宿泊される方の最寄り駅への送迎は致します。(お申込の際、希望集合地、宿泊希望であるかなど明記お願いします。)

※終了予定時刻は16時30分です。愛知県への帰宅途中で下車御希望の方は仰ってください。



お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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熱田神宮昭和造営誌 

Posted on  2018/02/27 Tue. 21:11   
熱田の大神様から熱田神宮の資料をいただきましたので、その一部を皆様にもシェアしたいと思います。

熱田神宮宮庁発行、熱田神宮昭和造営誌、非売品。御社の設計図から昭和の時代に行われた遷宮はじめ、昭和史が全て書かれている561ページにわたる資料です。

幼い頃に熱田の大神に御縁を結ばれ、今回の人生をスタートした私ですが、昨年は熱田神宮で何度もセミナーを開催させていただきました。会を重なれば重なるほど新な発見があり、自分も多くのことを学ばせていただいてます。そして、もっと深くを知って事をやっていきなさいということでしょうが、さらに深くを知るための資料まで与えられました。与えられたものには、大神や過去で熱田神宮を守っていらっしゃった神職の方々や関係者の方々の想いがいっぱい詰まっていて、魂に響いてきます。


以下、終戦直後の様子が記された部分を抜粋します。



終戦

昭和二十年八月十五日 終戦

 混乱と虚脱の中にあって、神宮当局が生命に代えてもやりとげねばならぬ一事があった。終戦と同時に当然上陸を予想される占領軍から、如何にして神宮を護り抜くかという事である。幸いにして占領軍から不当な干渉圧迫がなければよい。だが武力を背景にどの様な事態が起こるかを予想することは不可能であった。
 既にこの年の七月初旬、政府首脳の間では伊勢、熱田両神宮を万一の場合に奉遷すべき方途について内々の検討が加えられていた。終戦の日、篠田権宮司が上京していたのは、もし本土が戦場になる場合について内務省との協議の為であった。篠田権宮司は終戦の報を聞くと同時に、内務省、宮内省と能う限りの協議を遂げて、即日帰名の途についた。翌十六日、神宮に帰着した篠田権宮司の報告にもとづき、緊急重大な措置が決定された。
 八月二十一日、極秘の中に、長谷宮司が奉仕して、神儀奉遷の儀が行われた。奉遷の目的地は岐阜県水無神社、御料車は東海軍管区司令部から派遣された乗用車二台であった。
 奉遷後約一カ月、占領軍も進駐も一段落しその動向も或る程度の見通しをつけることが出来た。九月十九日、再び御動座。篠田権宮司が奉仕して水無神社を後に無事熱田神宮に還座せられたのである。
 この事に関しては、これ以上記述を避けたいと思う。宮司権宮司を始め神宮神職、関係者一同の当時の痛恨、恐懼の情は、到底筆の及ぶとことではないと考えられるからである。
 ただ、木戸内大臣日記の昭和二十年七月三十一日の条に次の記述があることだけは、謹んで記録にとどめておきたい。 

 御召ニヨリ、午後一時二十分御前ニ伺候ス、大要左ノ如キ御話アリタリ・・・・・・・・・
伊勢ト熱田ノ神器ハ結局自分ノ身近カニ御移シテ、御守リスルノガ一番ヨイト思フ・・・・・・・・・万一ノ場合ニハ自分ガ御守リシテ、運命ヲ共ニスル外ナイト思フ、謹ミテ拝承云々

 同年十二月十五日、連合軍総司令部から神社弾圧を目的とする「神道指令」覚書が出された。当神宮に対する国、県、市など一切の公的団体の如何なる援助も、この指令によってすべて断ち切られた。人心は極度に荒廃し、焼野原と化した熱田神社にとって、この指令は、瀕死の病人の頭上に仮借なく降り下された鉄槌の様な感じさえ抱かしめた。
 だが、境内の到る処に瓦礫の山と化した悲惨な焼跡を露呈してはいたが、千古の緑を湛えた熱田の森は依然幽寂の姿をとどめていた。それにもまして、神霊の厳としてまします事実は、如何に世情が変わろうともいささかのゆるぎもなかった。さればこそ、言語を絶する悪条件の中から、早くも復興への槌音が力強く響き始めたのであった。
云うまでもなく、建築資材は皆無に近かった時である。復興の兆しは微かではあった。しかし、幸いにして焼失を免れた西門外の錬成道場(旧宮庁)この建物も六月九日の爆撃による爆風で相当の被害を蒙ってはいたが、応急修理の上この施設を仮宮庁とし、復興への足がかりとして、こうした非常に困難な事情の中に昭和二十年十一月から十二月にかけて、警衛課仮庁舎(十一月二十三日)、上知我麻神社(十二月十五日)、職員職舎(十一月十五日)など、いずれも仮建物ではあったがそれぞれの工事に着手し、戦災と同時に消えていた境内電灯線を開通せしめた(十一月二十四日)。又奉賽業務に事欠いてはとの配慮から設けられた神楽殿も名だけの天幕張りのものであったから早速角南技師等を招いて神楽殿の設計も開始した(十二月三日)。このように復興に寄せるすざましいばかりの意慾は次から次へと力強く果敢実行に移されていった。
 昭和二十一年。元旦のみで百万以上の参拝者を見た戦前とは比べ様もないが、それでも正月五日間で四十万人の初詣に接した職員は奮い立った。
 仮神饌所竣功(一月一日)、神知我麻神社竣功、遷座(一月四日)、高座結御子神社地鎮祭(四月四日)、警衛課上棟祭(同日)、同竣功祭(八月八日)仮神楽殿起工奉告祭(九月四日)、同新殿祭(十一月七日)。
 中には、数少ない焼残りの建物を二棟三棟と集めて、一棟とするといった苦心の建物もあったが、まず緊急なもの、参拝者の要望するものを目標に、出来得る限りの方法をとって、一つ一つの仮建造物の工事が進められていった。
この年二月、官国幣社に関する官制廃止。一般の宗教と同じく、宗教法人成立届けを七月三十日県知事充宛て提出。同十一月十九日「宗教法人熱田神宮」の登記を完了。
 同年十二月の職員数と昭和四十一年一月現在の職員数を参考までに対比すると次の様になる。当時の状況を窺う一端ともなろう。
 宮司(一)権宮司(二)禰宜一四(宮掌以上二五)衛士六(一九)雇二(六)嘱託二(九)事務雇三(一〇)巫子三(一五)工手(一)工丁一(三)宮丁五(一三)技師〇(一)技手〇(一)事務員〇(五)養成所生徒(一三)
 計三九(一二四)
 昭和二十二年。食べるものも無く、着るものも無く、日々の朝夕に神前に献る神饌の一部を、境内焼跡の菜園で職員が懸命に栽培するのが日課の一つであった。
 だが、とにもかくにも復興の手は一日たりともゆるめられることはなかった。
 高座結御子神社仮殿竣功、遷座祭(三月二十七日)、下知我麻神社竣功(四月九日)、鈴之御前社竣功、還座祭(七月二十五日)、総代会に於いて名古屋市田淵復興局長井上建築課長等都市計画問題について懇談(九月一日)、菅原社竣功、還座祭(九月十九日)、大国主社、事代主社竣功、還座祭(十二月十四日)。
 この頃、神宮当局へは各方面から相ついで、熱田神宮の諸施設復興の要望、懇請が寄せられていた。中には社殿その他再興の用材を献納する人々も現れて来た。又昭和二十三年に竣功した茶席清雪庵、六友軒などの様に、献茶会という団体を組織して、施設を献納する場合もあった。
 遠近、多寡を問わず、復興の一助にと真心からの浄財が寄せられ来た。いよいよ神宮として、復興への本格的な活動を展開すべき機運が熟して来たかの感が強くなっていった
 しかし、神宮では、物心共に荒れ果て、日々の糧に苦しむ市民生活が一応の安定を見るまでは、積極的な復興造営活動を控える、という方針をとった。恐らくは、大神の御心も民生の安定向上をこそお望みに違いないと拝察申し上げたからに外ならなかった。日々の奉仕の度毎に、最低限の仮社殿で雨露をお凌ぎいただかねばならぬ申し訳なさに身を切られる想いを重ねながら、ひたすら復興の機の近いことを祈った。
 こうして悪夢の様な戦後の二年、三年が過ぎた。そしてやがて本格的な造営への胎動が兆し始めた。
 昭和初年以降数次にわたる、造営、拡張、整理は、既に述べた通り、云わば国家の力による主事業を軸として営まれたものであった。だが、来るべき造営の原動力は全く全国崇敬者一人一人が大神へ捧げ奉る真心の結集そのもの以外にはあり得ない。その困難さはもとよりであるが、御鎮座以来千八百年、いっときと雖も曇り給うことのなかった、無辺の神徳を、国民一人一人の胸の奥底まで、照り徹らせる又とない大切な機会でもあったのである。
 云わず語らずの裡に、関係者一同は心底深く決意を秘めて、徐々に「熱田神宮造営会」結成への準備が育まれつつもあった。(抜粋終了)



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カテゴリ: 熱田神宮

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神呪寺御開帳参拝セミナー (兵庫県) 平成30年5月18日(金) 

Posted on  2018/02/24 Sat. 11:13   
日時       平成30年5月18日(金)< 神呪寺 一年に一回の御開帳の日です>



集合地と集合時間   トランブレーみゆき宅に午前2:30(みゆき宅に前泊も可です)。または、現地集合。 または、愛知県から現地に向かう途中ルートから大きく外れなければ合流も可(その場合はご相談下さい)。




コース  神呪寺➡廣田神社➡西宮神社➡芦屋神社➡六甲山神社(白山の宮)➡有馬温泉➡ランチ➡六甲比命神社




定員  4名(定員に達しましたので締め切らせていただきます。ありがとうございます。)




参加費  15000円





真名井御前について・・・京都府宮津市の真名井神社・籠神社祝部海部直氏系図 始祖=天照国照彦天火明ー海部三十代 海部直雄豊の娘(八0二)誕生  尼公年 二十歳にて六角堂(京都府)から宮中に迎えられ代四妃となり、真名井御前と呼ぶ   実名=海部巖子



弘法大師が教化された三女性
*大師の母
*嵯峨天皇の皇后=橘喜智子(壇林皇后)
*真名井御前=海部巖子



神呪寺の如意輪融通観音(真名井御前二十八歳の生き姿)は弘法大師自らの彫刻です。



空海が京都の六角堂を参拝した時に真名井御前に出会い、その時真名井御前は十三歳。出羽三山に行かれたのは真名井御前二十六才頃。真名井御前が流産したお子様の御魂について・そしてその後のことは、セミナーの中で詳しくお話しします。




六甲山  白山之宮
六甲山石宝殿の正面には「白山大権現」の額が掲げてあり、その奥の石祠が安置されています。左横に、六社大神・権大神・一水神大神・白山大神(大正三年)の石祠があります。ここを訪れる方々は多いのですが、そのまた奥にも沢山の神々が祀られていることには気づきにくいです。波動でキャッチされる方々は、石祠が見えなくてもわかっているのでしょうが。禁足地となっているのですが、神々の導きがありまして宮司様御夫妻により中に入らせていただきましたので、ここで皆さまにも知っていただけたらと思います。白山水天宮(水の神)・白菊姫の神・六甲稲荷権現・六甲山頂大権現・御嶽山大権現・六甲山石宝殿 白山之宮祭神・白山妙理大権現・八大龍王大神・龍王姫大権現・他多数の神々が祀られていらっしゃいます。祠は見えなくても、この六甲の地を沢山の神々が守ってくださっているので、意識を山・町全体に拡げ感謝の想いで祈っていただけたらと思います。






六甲について
六甲という名の解釈はいろいろありますが、六甲を元として六十干支を数えると、甲子(きのえね)から始まって癸亥(みずのとい)に至る六十進法の中に、甲子、甲戌、甲甲、甲午、甲辰、甲寅の六つの六甲が六十干支を代表して際限なく繰り返しながら、この地球・全ての命を見守り育んでいます。「六甲」という名がついているということは、六甲山では、過去・現在・未来という時の流れやエネルギーも神として、感謝の想いを祭祀として行ってきたのかもしれませんね。、六甲山麓にある農村部の古老が伝えていることのひとつに、一年に六回、甲子の日に、六甲山から湧き出る御神水を飲むものは必ず延命長寿するという伝承があります。

神功皇后が六甲山系に六つの甲を埋めたという説もあります。
「神功皇后」は神武権力が伊勢の神(八和幡之大神)をつぶし、「神武天皇」に都合の良い神祀りをしていることはご存知でした。皇后が、「仲哀(ちゅうあい)天皇」(第十四代)と共に三韓征伐に向かわれる道中、九州の地で御子をお宿しになり、新羅へ渡る船の中でその事にお氣付きになりました。今まで男性的で勢いのおありであった皇后が、一転して母性本能をお見せになり、この戦争は出来るだけ穏便に済ませようと相手方と相談され、和が成立してお帰りになりました。
この御子の命は、天皇と最後の和みをなさいました時に授かり、(帝はそのままお亡くなりになりました)我が君の残して下さいました宝であり生命をお与え下さいました「八和幡之大神(やわたのおおかみ)」のお陰と、九州の宇佐の地に八幡宮を御造営になり感謝の祈念をなさいました。今までの荒々しいご自身の言動があまりにも恥ずかしく、都へのお帰りの途中、甲山(かぶとやま)にご自身の甲冑(かっちゅう)や剣など埋け(い)けておしまいになりました。そして浪速(なにわ)に、「住吉大社」を伊勢の内宮に向けてお建てになり、生命を宿して下さる男神への感謝をなさいました。

こうして「八和幡之大神」を潰して来ました。「神武天皇」から十四代目の天皇の代で、やっとこの神を復興されましたが、またもや権力者がこの御神理氣を消してしまい「仲哀(ちゅうあい)天皇は九州でお隠れになっても、皇后には御子が授かった。これは正(まさ)しく神の化身である。」と言って誉田別尊(ほんだわけのみこと)<応神天皇>を神であるとし、その後、八幡神社には誉田別尊が神とてお祀りされました。


過去・現在・未来に繰り返されるこの「六甲」という時の流れ。過去生かしていただいたこと、今というこの瞬間を生かされていること、そしてこれからも生かしていただくという「時の神」に、そして「八和幡之大神」に、この六甲山で感謝の祈りを捧げるものいいかと思います。





※歩きやすい靴と服装でお願いします。

※ランチは神戸市の有馬温泉 元湯 古泉閣 にて温泉に入り、精進料理(そば精進)をいただきます。温泉代1000円とランチ代2160円は参加費に含まれます。

※世界遺産熊野古道の神事に、参加費の一部を使わせていただきます。事情は大変複雑な為、セミナーなどで御縁ある方々に直接お伝えします。

※直前のキャンセルはキャンセル料をいただきます。

※御開帳の日は大変込み合います。御開帳は午前6時からですので、朝一番での拝観をさせていただく予定です。

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神仕組み・歪められた歴史・この世の循環・今までの経験から得た学びや感じている事などもお話しし、皆で弥勒の世創りについて考えたいと思います。私が一方的にお話しするのではなく、皆様の質問・意見などを交えながら参加者様と共に会を進め、集った人全てがお互いに学び合い、楽しく有意義な会としたいと思っていますので、どうぞよろしくお願い致します。


※遠方からご参加の方は、前日みゆき宅に宿泊も可です。(宿泊希望の方は、その旨をお知らせください)駅へのお迎え時間はまた後日お伝えします(最寄り駅は、名鉄本宿駅)。宿泊費用は不要。参拝終了後、また愛知県のみゆき宅に宿泊してから翌日帰宅希望の方は、どうぞお泊り下さい。その場合も宿泊費用は不要ですく\(^o^)/)



お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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(☆を@に変えてください)





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石切劔箭神社&星田妙見宮参拝セミナー(大阪) 平成30年4月21日(土) 

Posted on  2018/02/22 Thu. 11:18   
日時       平成30年4月21日(土)



集合地と集合時間   トランブレーみゆき宅に午前4:30(みゆき宅に前泊も可です)。または、現地集合。 または、愛知県から現地に向かう途中ルートから大きく外れなければ合流も可(その場合はご相談下さい)。




コース  石切劔箭神社・下之社➡石切劔箭神社・(上之社)➡星田妙見宮➡星田神社➡天田神社





定員  4名(締め切らせていただきます。ありがとうございます。)




参加費  10000円





数日前、桓武天皇のと伊勢の関係についての質問がありました。星田妙見宮や北辰信仰も関係しているので、以下のようにお答えしました。




まずは、伊勢神宮の祭祀には北辰信仰が混じっていますよね。

以下は、数年前にブログに書いた記事ですが、ちょっと読んでみてください。

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筆を持って字を書くのが好きです。  ただ、頭に浮かんだ言葉を書き留めるだけ。 今朝も感じたままに書き留めた言葉があります。

『日本人は、太古の昔から神と共に生きし民族なり。 人々は、祭りの間 心ひとつになり、踊り、神輿を担ぎ、神に祈りを捧げ、心清らか 和になりて宇宙と響き合う。 しかし、今の時代、その祭りをやめる土地・人々の都合で日時を変える土地もある。 祭りの日時は神宿りし、その数字には意味込められたる。故に、安易に変えるは許されぬことなり。』

私は、宮司様や神職の方々とお話しする機会が多いのですが、数時間話す内容を全てブログには書ききれませが、先日お会いした宮司様とお話しした時、私が話した内容のほんの一部ですが少しだけ記してみます。

宮司様といろいろな話をする中で、宮司様が 『祭りの日にちを変えてはいけないんですよ・・・』 と仰ったのです。 その瞬間、私の頭の中に浮かんだことがあり、私はこのように話を展開しました。



全ての命を育み昼夜の循環を司る太陽は毎日東から昇り西に沈むことから、東は命の誕生や再生・西は死の方位と認識され、太古の日本は東西を軸に生きていました。 しかし、そこに南北の軸と中心という観念の陰陽五行思想が入ってくることになりました。 太陽を中心として東西を軸としていた日本人にとって、この新しい観念である南北軸は、日本の祭祀にも大きな影響を与えました。天の中央に位置し太陽より重要な神がいて、その神は全ての星の神。その神を古代中国では「太一(たいいつ)」と呼びます。その位置こそ、南北軸の北を司る「北極星」です。そして、その神を運び循環させるのが北斗七星だと考えられてました。
北の反対側には、南斗六星があります。北極星と北斗・南斗を結ぶ南北軸は、天を支配し全ての命を循環させとても神聖なものと認識され、だからこそ、地を守る天皇がこの思想を取り込んだのです。もちろん、伊勢神宮でも神事の中にこの思想が取り込まれています。例えば、神嘗祭。旧暦の9月16日の子(ね)の刻(24時)、神々に大御饌(おおみけ)が捧げられ17日の午(うま)の刻(12時)は、玉串奉奠と奉幣の儀式が行われますが、子(ね)と午(うま)の刻というのは、五行で言うと「水」と「火」、そして方位では「真北」と「真南」、つまり南北軸です。これを研究されてる吉野裕子氏も仰っていますが、9月16日と17日の子(ね)の刻には、北斗の剣先が「北=子」を指し、17日の午(うま)の刻には、剣先が「南=午」の方位を指しているそうです。ということは、神嘗祭の日時は、北斗によって南北軸が結ばれる時に合わせて決められているということです。神宮の祭祀で最も重要とされている祭りのひとつは、「三節祭」と呼ばれており、神嘗祭・旧暦の6月と12月の月次祭。この6月と12月の祭りの時刻なのですが、北斗の剣先が真西と真東を指すそうです。三節祭は、北斗が東西と南北を描く時刻を設定しているということです。つまり、太陽系という小さな捉え方でなく、宇宙という広い視野に立って行っている祭りで、日本・地球・宇宙が永遠に良き流れで循環し、全ての命が守られますようにと祈念する祭りなんです。だからこそ、この日時を変えてはならないのです。 

宮司様は、私の話を聞きながら大きく頷き、こう仰いました。
『その通りです。 現在こういうことを知らずに神職を務めてる方がたくさんいます。誠に残念なことです。そして、真の意味を理解できなかったり、真実を伝えられてなかったりするために、土日のが人がたくさん来るからという理由をつけ、人の都合で簡単に日時を変えてしまう神社が多いことを残念に思っています。』と。
私も同感でした。

神職と、私みたいな一般人というそれぞれの立場で、それぞれの場で真のことを代々伝えていかなければいけないと思います。そして、違う立場の人が、時に確認し合いながら力を合わせて伝統を守っていきたいと思っています。

全てが良き循環の中で調和して生きることができますように!(日記抜粋終了)


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星田妙見宮という宮が大阪にあります。桓武天皇が長岡京遷都達成の神恩感謝として、786年に交野ヶ原の柏原において歴代天皇で初めて郊天(北辰)祭祀を行い、そしてその桓武天皇の郊天祭祀から31年後、空海が北辰を星田妙見宮で祀り、さらに桓武天皇の皇子である嵯峨天皇、淳和天皇がたて続けに星田妙見宮へ行幸した記録が、縁起に残っています。

桓武天皇が北辰祭祀を宮に取り入れた最初の天皇だから、そして今も伊勢神宮ではそれを守り続けてるわけだから、桓武天皇と伊勢神宮はとても深い関係があると思ってます(*^^*)

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石切劔箭神社の由緒と御祭神


星田妙見宮の由緒と御祭神


星田神社の由緒と御祭神



神仕組み・歪められた歴史・この世の循環・今までの経験から得た学びや感じている事などもお話しし、皆で弥勒の世創りについて考えたいと思います。私が一方的にお話しするのではなく、皆様の質問・意見などを交えながら参加者様と共に会を進め、集った人全てがお互いに学び合い、楽しく有意義な会としたいと思っていますので、どうぞよろしくお願い致します。


※遠方からご参加の方は、前日みゆき宅に宿泊も可です。(宿泊希望の方は、その旨をお知らせください)駅へのお迎え時間はまた後日お伝えします(最寄り駅は、名鉄本宿駅)。宿泊費用は不要。参拝終了後、また愛知県のみゆき宅に宿泊してから翌日帰宅希望の方は、どうぞお泊り下さい。その場合も宿泊費用は不要ですく\(^o^)/)



お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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(☆を@に変えてください)



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熱田神宮&奥の院参拝セミナー (愛知県)平成30年3月4日(日) 

Posted on  2018/02/19 Mon. 11:51   
日時       平成30年3月4日(日) 9:00~17:00

集合地と集合時間   熱田神宮  正門(南門)  9時





熱田神宮 名古屋市熱田区神宮一丁目一番一号  


境内案内




コース

熱田神宮➡ランチ  熱田神宮で名古屋名物きしめんをいただきましょう(^^)/)➡御器所八幡宮➡龍泉寺➡尾張戸神社




定員  4名(残2)


参加費  5000円


御器所八幡宮について・・・「御器所八幡宮は、御器所の総社として往古より信仰をあつめ仁明天皇勅願熱田神宮鬼門除鎮護の大神として御器所の聖地に斎鎮祭されたと言い伝えられ、尾張志に熱田神領にて神祭に用ふる土器を調達する故に此の名ありと伝ふ・・・」(由緒書きから抜粋)

御祭神
八幡大大神・八釼大神・五男三女神・天児屋根命・天照大御神・弥豆波能女命・菊理媛命・木花咲耶命・山王大神・高蔵大神・熊野大神です。



尾張戸神社について・・・『下水野村の尾張山は山上に尾張姓(をわりうぢ)の祖神(とほつおや)を祀る。此ゆゑに尾張明神と呼び、山をも当国山(とうごくさん)と俗称す。一に東谷山とも書くものは文人の所為(しわざ)なるべし。集説に尾張戸(をばた)天神にを配(あて)たるは非(ひがごと)也。さて山王権現を祀るは後の事なり・・・土民(たみ)はあつたの奥の院也といふ。』
御祭神は尾張の祖である天火明命と天香語山命と建稲種命です。山一帯に大小の古墳が密集しているのですが、尾張一族ゆかりのものと考えられています。



龍泉寺について・・・龍泉寺ホームぺージから➡庄内川、濃尾平野を眼下に見下ろす守山の景勝地にたたずむ龍泉寺は、天台宗に属し松洞山大行院と号します。延暦年間(782‐806年)、伝教大師最澄が創建したといわれています。宝暦5年(1755年)に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」という内容が記述されています。そのため、龍泉の名前もこの話に由来するといわれています。一方では、弘法大師空海も同じように、熱田神宮参篭中のおり、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納しており、龍泉寺は熱田の奥の院といわれてきました。このため、この寺は伝教・弘法大師の開基ともされています。



日本武(長)尊(やまとたけるのみこと)について

蝦夷征伐(えぞせいばつ)

神武東征以後、日本の国は序々に権力者が頭をもたげ、ついに伊勢の内宮までが放置される事態となってしまいました。第十二代景行天皇の御代(みよ)には、速素佐之男尊の威光を遺す尾張族を潰す策略が練られていました。尾張の国のことを葦原中国(あしわらなかくに)とも出雲の国とも言い、美濃・尾張・三河の三ヶ国を中心としていました。特に美濃国の赤坂の地の金産山(かなぶやま)が、「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」の掌中にあることが尾張族の繁栄をもたらし、丹生家の中心拠点とな」っていたため、神武権力者がこの金産山を召し上げようと企てていたのでした。

景行天皇の第二皇子の「小碓尊(こうすのみこと)」を遣わして、蝦夷征伐するという名目で、尾張族を従わせてその力を削ぎ、尾張族の旗頭(はたがしら)「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」が帰還したところを討ち取って「日神山」を一気に進撃する計画でした。

今から約二千年位前「小碓尊(こうすのみこと)」は、父景行天皇に「蝦夷征伐」を命ぜられました。今、熊襲(熊襲)を征伐して帰ったばかりだというのに、今度は蝦夷を征伐しろとおっしゃる。何故なのか、反乱でも起こしたのだろうかとお尋ねすれば、「いらざる事は聞かずともよい。征伐に行けと言われれば行くのが其方(そなた)の使命である。」と仰せになり、尊はそれ以上、何もお聞き出来なかったのです。この征伐の副将軍には、尾張族の旗頭「建稲種尊(たけいなだねのみこと)」が任命されました。「小碓尊(こうすのみこと)」は仕方なく「日神山」の館へ向かわれたのでした。。そして征伐のための荷駄軍船(にだぐんせん)を、尾張の国と三河の国を分ける境川の河口にあります南島に集結させ、「小碓尊(こうすのみこと)」はわずかな供を連れて、「日神山」の館を出られ、徒歩にて南島に向かわれたのでした。


景行天皇について

権力に乗って、外宮の造営にも横槍を入れて「景行天皇」は、日本霊魂(やまとだましい)を貫こうとされた二人の皇子「大碓尊(おおうすのみこと)」と「小碓尊(こうすのみこと)」を失ってしまいました。天皇は亡き皇子の辿られた所を巡行され、ご自身の過ちを悔いて、この浅ましい想いを終わりにする決意をされ、東谷山➡当国山(とうごくさん)に「終所神社(おわりべじんじゃ)<尾張戸神社>」をお建てになり、そこに、無血の国譲りをなさった「饒速日(にぎはやひ)天皇=天火明尊」をお祀りになりました。その山の麓に、我が皇子「日本長尊(やまとたけるのみこと)」の白鳥御陵をお造りになり、皇子の御霊魂(みたま)を慰め弔ったのです。


速素佐之男尊について

権力者にとっては、欠く事の出来ない鉄鉱石を生産する鉱山を所有する丹生家(にゅうけ)の中心人物「速素佐之男尊」と言えば、神武王朝権力にとっては、すでに千五百年は経っていても一番手強い人物であり、この大和建国の最大の功労者の事を語られては困る為、尊さまの御霊魂を追い出すために、北杭瀬(きたくいせ)の蹈鞴精練所(たたらせいれんじょ)の八つの溶鉱炉が在りました出雲中国(いずものなかくに)<中部地方>を、徹底的に弾圧し、「速素佐之男尊」を出雲の島に移して「八俣(やまた)の大蛇退治(おろちたいじ)」の物語を創作しました。

やくもたつ いずもやえがき こまごみに やえがきつくる そのやえがきに

この歌は「速素佐之男尊」の偉業と、出雲中国(いずもなかくに)の八つの溶鉱炉を囲っても囲っても隠し切れない事を伝えており、神武天皇に無血の国譲りをされた「饒速日天皇」の国務大臣十八名が流されました出雲の島、ここは「天照天皇(大国主尊)」の関わりのある地であり、神がここに出雲中国(いずもなかくに)の「速素佐之男尊」を花咲かせて、中国(なかくに)の真実を出そうとされたのでした。



太陽の「真光」と「丹」と「芒種のエネルギー」とが、日輪太陽津(かい)において亢進状態に入る神姿を「三宝荒神」と言いますが、仏教では「三大虚空蔵菩薩」としてお祀りし、またこの日輪太陽津での天照皇大御神のお活動氣(はたらき)を『熱田の大神』 と呼んでいます。そして、この御祭りを「生産祭(しょうぶまつり)」(生腑祭)と定め置かれました。『熱田の大神』とは『不動明王』の姿でもあります。不動明王が手に持つ剣は、不戦の誓いを表す「民草和氣(くさなぎのつるぎ)」です。『不動』とは、人間の如何なる知恵・力をもってしても、動かす事の出来ぬ天地の理、則ち不動なり。』

(by 加古藤市氏)




熱田神宮参拝セミナーですので、もちろん熱田神宮についても詳しくお話ししますが、近況報告・他のことについてもできるだけお伝えしたいと思います。過去で行ってきた神事や現在取り組んでいる神事について、また神々や人々や様々な事から学ばせていただいたことなどをお話ししたり、神の歴史について触れたり、人としての在り方、感情に振り回されることなく自分の軸をしっかりさせるには?、地場の調整の仕方などについてもお話したり、弥勒の世創りについて一緒に考える場としたいと考えています。

私が一方的にお話しするのではなく、皆様の質問・意見などを交えながら参加者様と共に会を進め、集った人全てがお互いに学び合い、楽しく有意義な会としたいと思っていますので、どうぞよろしくお願い致します。


※当日はたくさん歩きますので歩きやすい靴と服装でお願いします。



お申し込み   トランブレーみゆきまでお願いします。

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(☆を@に変えてください)




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