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むすひ

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昔の人達は全ての存在が『むすひ(霊産)』の力で産みだされると考えていました。「むすひ」で産み出された私たちがひとつに繋がり素晴らしい地球にしていくことができたらいいですね

 

福井県・京都・奈良県へ  その1 

Posted on  2014/06/07 Sat. 08:22   
お久しぶりです。関西から帰宅、身体もちょっと回復しましたので御報告を(^^)あまりにいろいろあり過ぎて中身が濃すぎてなんだか数十日行っていた気分です。深すぎて、書いてはならない部分も多々有りなので、支障のない範囲で書かせていただきます。

仲間たちは、31日の土曜日に京都入りする予定だったのですが、私は毎週土曜日の夜はお仕事のため、みんなと一緒に真名井神社と籠神社に行くのは諦めていました。ところが一週間前のこと・・・『生徒が全員来れません。教室も使えません。』との連絡が入ったのです。なにやら、地域の運動会の打ち上げパーティに全員参加、しかも場所もそこを使うとのこと(・_・)神事よりお仕事を優先させなければいけない・・・と思い、諦めていたのですが、なぜか強制的にお仕事ダメ~~~って流れになりまして、土曜日が自由な日に(#^.^#)ということで、めでたく?私は、北陸道を通って福井県へ。前日の夜お仕事だったためほとんど寝る間もなく運転、朝の5時前には福井県入りしてました。(ちょっと眠い、でも久しぶりの日本海にワクワク♪(#^.^#))まずは、お呼びがかかった氣比神宮(けひじんぐう)へ。越前国一宮です。

氣比神宮(by ウィキペディア)

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、地理的には北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。そのような立地にあることから、神宮は「北陸道総鎮守」として朝廷から特に重視された神社であった。

神宮について『古事記』『日本書紀』では早い時期にその名が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)と関わりを持ち、古代史上で重要な役割を担っている。また越前国の一宮に位置づけられるとともに、古代・中世を通じて福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に社領を有し、戦国時代に衰退するまで北陸地方では随一の勢力を誇ったとされる。

空襲で社殿のほとんどが焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社では角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。祭事では多数の特殊神事が現在まで続くほか、社宝では文化財数点を伝えている。(抜粋終了)

日本海側を護って下さってる重要なポイントのひとつ。感謝のお祈りしてきました(^^)そして、次は・・・処刑場へ(*^^)v
福井県へ出発15時間程前のこと。うとうとしていた時、突然私の意識の中に『松原・・・氣比神宮』と飛び込んできました。ハッとして飛び起きたのですが、『松原』という言葉がインパクト強すぎて、その後の・・・・・・を一瞬にして忘れてしまったのです(-_-;)どうしても思い出せない。『松原』の先に何かを言われたのですが、さっぱりで? 仕方ないのでキーワードだけで探ることに。氣比神宮の近くであることだけは感覚でわかりました。そして、『松原』という地名か? 誰かの名前か?神社の名前か? そして、ネット検索。すると氣比神宮の近くに『気比の松原(けひのまつばら)』という場所がありました~~\(^o^)/敦賀市の景勝地で、三保の松原、虹の松原と共に日本三大松原として知られ、1934年(昭和9年)に国の名勝に指定されているそうです。また、若狭湾国定公園の一部にもなっているそうで。三保の松原は聞いたことありましたが、気比の松原は知りませんでした~。でも、海ではないのですよね。その中?近くの?どこかから呼ばれている感覚。どこだ?どこだ?と調べていたら、ありました~~~~松原神社!処刑場~(*_*)間違いなくここ! 

調べてみてびっくり。日本史上例のない大量の処刑が行われた地でした(*_*)こんな事実を知らされ『来て下さい!』と呼ばれたら、やはり祈らせていただきたい。

松原神社

10月10日(火)
「武田耕雲斎」所縁の地
松原神社・例祭

武田耕雲斎(たけだこううんさい)は
水戸藩・天狗党の首領として活躍し
元治2年(1865年)に、天狗党の乱で
落命した幕末の人物でございます。

現在は、若狭・敦賀市にある
松原神社(まつばらじんじゃ)の
祭神として、祀られております。

元治元年10月、水戸藩士
武田耕雲斎率いる水戸天狗党は
尊王攘夷の大義を唱え
上洛の途次越前に入り
12月、敦賀郡新保宿にて
大雪に遭い幕府の軍門に降ります。
当初は加賀藩の手厚い
もてなしがあるも
幕府により
形だけの取調べの後
若狭・敦賀の地で
武田耕雲斎等353名が
刑死となりました。
その刑場跡に
水戸列士墳墓があり
道路を隔てた所に
刑死者や上洛途上の
戦死者、病死者もあわせ
411柱の祭神が鎮座される
「松原神社」がございます。
毎年、10月10日(火)に
その松原神社で開催される例祭は
若狭・敦賀の地で斬罪に処された
武田耕雲斎を総大将とする
尊皇攘夷の水戸烈士・天狗党を
しのぶ行事になります。

何故、毎年
10月10日なのかは・・・
明治29年10月9日に
社殿が竣工しましたが
その前に、明治11年10月に
明治天皇北陸ご巡行の際
祭祀料を賜ったのが
10月10日だったので
・・・この日を
例祭にしている、との事です。(抜粋終了)

もともと来迎寺の端に町人の死刑場があり武士が町人と同じ場所で処刑されるのは大きな侮辱だったそうで・・・処刑は、大きな穴を5つ掘り、そこに死体を埋め、大量の血が流れ、近くの川は死人(しびと)川と呼ばれたそうです。

天狗党の足跡
10 天狗党に平穏なひと時と待受ける過酷な処刑
元治2年(1865)元旦、天狗党の浪士達は、ほんのひと時、平穏な正月を迎えることができました。
加賀藩から飛脚で運ばれてきた鏡餅と酒樽7荷が一同に配られ、子供には腰高饅頭が与えられました。隊の中に子供は15歳以下10人、20歳以下24人がおりました。

(1) 天狗党の身柄、加賀藩から幕府へ 
年が明けて間もなく、浪士達の身柄は幕命により、幕府引渡しと決まりました。敦賀町内の警戒がいっそう厳重になりました。浪士達が収容されていた本勝寺、本妙寺、長遠寺の前通りや往来の入口には竹矢来が結ばれ、通行が止められ、その外回りを彦根、福井、小浜3藩の兵により二重三重に固められました。 1月27日の夕方、加賀藩永原甚七郎は、本勝寺の武田耕雲斎のもとに行き、幕吏への引渡しを告げ、別れを惜しみました。
永原甚七郎は寺内の浪士達を訪ね、次いで本妙寺、長遠寺の浪士達を見舞い、別れを告げました。 1月29日朝、加賀藩より永原甚七郎らが本勝寺に出頭し、幕府側から吟味役などが出張して、武田耕雲斎はじめ10人ずつを一組として呼び出し、一人毎に姓名札を持たせました。
兵士付添いで同寺門前で姓名札を引き合わせ、幕府役人に身柄を渡し、籠または歩いて3藩の兵が抜身槍で警固するなかを舟町(敦賀市)の鰊倉へと送りました。
本勝寺380余人の引渡しは、夕方七つ半(午後5時頃)過ぎに終り、長遠寺の90余人は夜四つ時(午後10時頃)まで、本妙寺340余人は翌日の明け方までかかりました。
このように病死者5人を除き、合計818人の引渡しが終わりました。
これまでの加賀藩の待遇に比べて、にわか造りの舟町の鰊倉獄舎での待遇は残虐そのもでした。
鰊倉はその名の通り、にしん肥料を入れて置くところで、その16棟が、にわかに借り上げられ、倉の窓は全部釘付けにされて、室内は暗く、敷物は莚、両便所は倉の中央に桶が置かれてあるだけでした。
武田耕雲斎など30人ばかりを除いて、その他の者は左足に足枷を掛けられました。 出入口の戸には、手を入れるだけの穴を開け、食事を渡すだけになっていました。三度の食事もむすび1つにぬるま湯ばかりでした。 倉は5間に7~8間の大きさで、一棟に50人ずつを収容し、西より1番倉から4番倉までは小浜藩、5番倉から10番倉まで福井藩、11番倉から16番倉まで彦根藩が警備に当たりました。 この鰊倉は、今も敦賀市の松原神社と茨城市の常盤神社の境内に各一棟ずつ移築され現存します。

(2) 幕府若年寄 田沼意尊、天狗党処刑に敦賀へ
幕命を受けた若年寄 田沼意尊は、天狗党が降伏すると武田耕雲斎など処分のため西上しました。1月18日京都において禁裏守護職の一橋慶喜に会い、水戸浪士の引渡しと、その処分の一任を取り付けました。
幕府にとって天狗党の浪士達は、「浮浪の徒」であり、幕命に背き、幕府軍に歯向かった罪人でありました。
2月1日 田沼意尊は200余人を引き連れて敦賀に入り、永建寺を本陣とするや即日、永覚寺に仮白州を設けて吟味を始めました。最初に武田耕雲斎ら25人を呼び出し、朝四つ時(午前10時頃)から取調べを始めました。
2月2日は、横田弥四郎など18名
2月3日は、武田金次郎など62名
2月6日からは、舟町の丸尾半助方に仮白州を設けて、2月6日から
2月20日までに全部調べ終え、順次刑を決定していきました。

浪士の総人数は、当初828人でしたが、うち24人が病死しました。このため死刑353人、遠島136人、追放180人、水戸藩渡し125人、永厳寺預け少年9人、江戸送り1人と刑が決定されました。
処刑は、2月4日から始められました。うち24名は、取調べから、わずか3日後、ただ1回の申し訳程度の調べで処刑されました。
これは若年寄 田沼意尊が京都にいる一橋慶喜の周囲に、浪士達の行動に同情を寄せる本国寺組がおり、日時を延ばせば慶喜を動かすのはもとより、朝廷にまで助命の沙汰が及ぶのを恐れ、急いでことを運んだものといわれます。(抜粋終了)

処刑場・武田耕雲斉墓・松原神社、たくさんの御霊さんが残っていらっしゃいました。いろいろな想いを抱えながら、国を背負って一生懸命に生きて来た方々。自分の生き方を誇りに思っている方もいるし、無念の想いで亡くなった方々も大勢です。今の平和な日本があることは、あなたたちひとりひとりの命あってこそ。今この世に生かされている私たちは、皆さまのことを忘れず良き日本・地球にしていくために全力で生きて行きます。あなた方のことを次世代にも伝えて行きます。今の幸せな世の中を与えて下さること、私たちを生かして下さってることに心から感謝申し上げますとお伝えしました。どうしても手作りのおにぎりをお供えしたくて、出発前に心を込めて作ったおにぎり&芋饅頭(#^.^#)昆布と梅干と鮭の3つ(*^^)vお酒やお水もお供えし、ロウソクを灯し、お線香、心を込めてお祈りさせていただきました(^^)お呼び下さり心から感謝です。

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